死刑の話です。


 
必要以上に詳しく書くと、キリが無いし、論点がぼやける。

要点を過不足無く書こうと思います。(結局、長いけどm(__)m )

今回は、廃止すべき理由として、理論的なことだけ書きます。

1.死刑制度の運用の問題点(判決まで、と、執行)と、
  死刑廃止に向けての課題。
2.死刑廃止をめぐる政治状況(日本国内、と、世界規模)、政策的な話。
別の投稿で書きます。


最初にぜひ確認したいこと


あらゆる人間の生命は大切なものです。
死刑は、「死刑」という名前の、「国家により正当化された殺人」です。
死刑制度の正当性を証明ができなければ、制度を存続維持すべきではない。
死刑制度の廃止をいう人に対して、「死刑制度が効果がある(抑止力など)ことが、無い、ということを証明せよ」というのは間違いである。


死刑廃止をすべき本質的理由
(国家権力の限界)


国家は、人間の生命を奪う権限を持たない。
「国家がどういう刑罰を科して良いか」という問題は、広く人権(人身の自由など)の問題ですが、
死刑は、単に、人権を「制限する」という通常の人権問題ではなく、
生命を奪う=”人権享有主体性そのものを奪う”ということです。

人権を享有する=人権がある。人権享有主体=人権がある存在=人間
人身の自由(身体の自由)=正当な理由なしに身体的活動を拘束されないこと。自由権の基礎。最近話題になった奴隷的拘束と苦役の禁止も人身の自由。

個人の尊厳原理社会契約説を根拠としています。

社会契約説=国家の正当性の契機を(市民の)契約にあるとする。
(つまり、みんなで「国家を作りましょう」「そうしましょう」って言って作ったものだから、国家は国家として認められる。)
もちろんフィクションです。実際はそんなことはありません。
でも、大事なのは、
・契約で作ったんだから、国家はこうあるべきだ、ということが言えるということ。
・市民の契約で有り得ないようなことをする国家は、国家として認めない、と言えるということ。

つまり、「他者の利益を害しないなど一定の正当な目的のために、国家権力から止むを得ない(人権の)制限を受けることがあるとしても、人権があることの根拠=「人間として生きていること」まで、否定する権限は無い」という論理です。

まあ、「社会契約論」では一番有名なルソーが、「契約の際に死刑の存在についても同意しているはずだ」という論理で存置論です。
もともと社会契約自体フィクションなので、水掛け論になるかもしれませんが。

この論点は、人間とは何か、人間の生命とは何か、国家とは何か、という理解、認識、信条、信仰などと深く関わるものと思います。


刑法理論(犯罪者に刑罰を科す理由)


いろいろとややこしい理論があるのです。

まず、詳しい説明をする前にもっとんの立場

犯罪者の改善可能性は有る、と信じます。(困難さの程度の違いこそあるでしょうが)
改善可能性が有るから、あきらめず、国家は改善の努力(教育)をする。
死刑は反対。
(同じ理由から、(仮出所の可能性の無い)無期懲役、無期禁錮(終身刑)には、反対です。)

この改善可能性については、教育学、心理学によるところが大きくて、今の人智では解明ができていない分野です。
ここでも、やはり、認識、信条、信仰が関わります。

改善可能性が無い、という証明が無い限り、死刑は廃止すべきです。


刑法学は、大きく分けて二つの立場があります。
 
1.「悪い人」が、犯罪を起こすことによって、「悪い人」だとわかる。
.ある人が、犯罪を起こすことによって、「犯罪を起こした事実」がわかる。

1の立場は、悪い人を何とかする必要があるので、「未遂犯か既遂犯か」「結果が重大かそうでないか」などに関係無く、悪い人を教育しなければならない、ということになります。(教育刑論)
2の立場は、犯罪を犯した人に、犯した犯罪に見合った刑罰を科すということになります。(応報刑論)

は(教育刑論)一見魅力的ですが、
科学的にその人の悪さ加減を見極めて、適切な教育を施すのは難しいですし、
権力の恣意的な運用が心配されます。
(例えば、懲役刑の期間を決めないとか。やっていることは大したことではないが、改善の必要がある性分だから教育しちゃおうとか)。
つまり、自由が不当に制限される結果になります。

日本は、一応、2の応報刑論ですが、
犯罪とまったく同じものを刑罰として科す、タリオの法理(目には目を、歯には歯を)=絶対的応報刑論ではなくて、1の立場なども取り入れた形になっています(相対的応報刑論)
絶対的応報刑論は、1の問題にある権力による恣意的な刑罰の適用を排除できる点、とても良いです(カントもこれを理由として強調して、絶対的応報刑論をとり、その当然の帰結として、死刑を肯定している)。
しかし、いつも、極悪の人間だけが重いとされる犯罪を起こすとは限らず、軽い刑罰や執行猶予をつける運用ができなくなります。
日本の刑法(という名の法律)は、かなり弾力的に運用ができるようになっています。(立法のとき、1の立場の影響が強かった)

教育刑の理論は、少年法に多少取り入れられていますが、少年院だけでなく、少年刑務所、通常の刑務所も、世界的に日本は遅れています。
再犯を防ぐ意味から(本人のためにも社会のためにも)重要な課題です。

絶対的応報刑論を採用すれば、死刑は肯定の結論になります。
相対的応報刑論からは、「相対的」なので、一概に答えが出ません。

応報を重視すれば、肯定に傾くでしょう。
日本は、殺人すべてを死刑にしているのではないので、相対的応報刑ですが、”2人以上”など条件を絞って(判例)、死刑判決を出しているので、その中で、ある程度、応報を重視しているといえるでしょう。(最近、裁判員裁判などで例外が有る)
また、死刑の判決文(判決理由)で、「矯正教育による改善更生の可能性がない」という表現が使われるのが普通ですが、これは、ぼくらが普段使う言葉に言い直すと、「どうしようもなく悪い奴で、悪い奴でなくすることはムリ。あきらめちゃおう。悪い奴だから抹殺するしかない」ということになるでしょう。
これも応報を重視しているように見えます。

なお、世間で言われる話の中に、「仏教徒は「因果応報」を信じるから、死刑肯定のはずである」というものがある。
仏教でいうところの「因果」と「因果応報」は自然摂理のものです。人間がそれを代行することを認めるという論理には必ずしもならない。
旧約聖書やコーランにタリオの法理(目には目を歯には歯を)が書いてあって、法令に採用された例もありますので、ユダヤ教、キリスト教、イスラムにも、同様のことが言えます。(ここ数十年で死刑廃止したヨーロッパの国々は、キリスト教国が多い。もちろんその他も有ります)

「月に代わってお仕置き」をするセーラームーンとかだめです。
(もっとんは、セーラームーンについては全然知らないという自覚は有りますので、セーラームーンの話に特化した批判は勘弁願います。)


被害者感情について


存置論をとろうが廃止論をとろうが、死刑など刑罰を論ずるより前に、最初に、犯罪被害にあった人と家族などの精神的・物理的両面のケアを考えるべきです。

そのために、法律や国家ができることは、
・犯罪被害者の国家による補償を厚くして、手続きを簡単にして、速やかな支払いが行われること。
・民事裁判や和解(加害者に対する損害賠償請求など)のバックアップ、請求権が認められた(判決が出た)後で、その履行(支払)が確実に行われるようにすること。
・精神科医や臨床心理カウンセラーによる精神的なケアを、積極的に行う制度を作る。
などです。

これらのことを行わず、考えずに、まず最初に死刑を語るのは、本当にすべき被害者のケアを、自らが忘れて、他人にも忘れさせることになります。


死刑存置論者は、被害者感情と被害者遺族の感情を、根拠とする場合があります。
たしかに、殺された本人、また、殺された人の家族・友人などの心情は、いくら想像してもしたりない。
おそらくは相当壮絶な、「壮絶」という言葉で言い尽くせない、感情でしょう。


そのことを前提として、あえて言う。
被害者感情または被害者の遺族などの感情を、死刑を肯定する根拠とすることは、「被害者保護」を偽装した、「報復」に過ぎない。
個人で、復讐をすれば、殺人罪です。現在は、江戸時代に武士に認められていたような合法的な仇討ちは無い。
国家がやると正当性があるように言うのは、ごまかしでしかない。

そして、加害者が死んだところで、被害者が生き返るわけでなし、被害者の遺族や友人の心が癒されるか。
精神医療や心理学の観点から、専門家の意見を聞きたい。

もう一つ

死刑存置論の弁護士は、被害者遺族すべてが死刑に賛成かのように言うが、それは間違いです。

なお、この問題については、別にも書きました。
被害者の人権と死刑制度の関係 - 死刑廃止論者は被害者の人権を考えないトンデモなのか


刑法の目的


刑法の目的は、法益を守ることです。
法益とは、「生命、身体、財産その他の権利などなど(「権利」に限らず、法によって守られるべき社会生活上の利益」をいいます。)
法益侵害を違法といいます。

この法益の中でも防ぐ必要の高いと考えられるものを、刑罰という強力な手段で守るのが、刑法の役割です。
刑法学で「保護法益」といった場合、最初から「刑法で守るべき利益」ということです。
犯罪を防ぐことを「予防」といいます。
予防には2つあります。
犯罪を犯した人の再犯を防ぐのを「特別予防」といいます。
犯罪を犯した人を処罰することを手段として、その他の人の将来の犯罪を防ぐことを、「一般予防」といいます。

特別予防の観点からは、通常、教育・更生ということが重視されます。
しかし、改善可能性を否定すれば、終身刑や、抹殺=死刑になるでしょう。

一般予防の観点からは、抑止力(将来の犯罪を防ぐ力)が問題となります。
今まで、多くの統計学などのプロが「死刑が凶悪犯罪の抑止力になること」の証明に挑戦しましたが、いまだに証明ができていません。

しかし、仮に、抑止力が証明されたとしても、もっとんは死刑に反対します。
 
上にあげた二つの理由(国家は人権享有主体性を奪う権限が無い、改善可能性を否定しない)に加えて、
もう一つ、凶悪犯罪を行った者であっても、他の凶悪犯(人の命を奪うことなど)を防ぐために、生命を手段としてはならない。
 
一般予防の目的で死刑を手段にするのは、どんなに正義ぶっても、所詮、内実は、見せしめです。
そして、報復抹殺という本音が隠れているのです。



死刑制度一般にある不都合


誤判の場合に、取り返しがつかない。 

冤罪(濡れ衣)のときのことです。
冤罪は「えんざい」
濡れ衣は「ぬれぎぬ」と読みます 

この点、「他の刑罰と同じではないか?」という人がいます。

・お金を取り上げた(罰金刑)。
・懲役刑で、20年閉じこめて働かせた(懲役刑)。
この二つと、殺しちゃった(死刑)。
同じですか?

刑罰自体に、量的な程度問題の差ではなくて、質的な差(性質の違い)があるのです。
だから、この場合、「取り返しがつかない」という言葉の持つ意味、性質が違ってきます。

死刑判決が確定して長期間閉じ込められて、冤罪が疑われるから再審開始を決定して釈放された、袴田さん。(まだ再審やろうとしませんが)

追記:この後、なんと、再審開始決定が取り消されました。

人生取り返しがつかないひどいことになってはいるんですが、死刑が執行されていたら、全然違う意味で取り返しがつかない。

刑法学者の団藤重光は、最高裁の判事をつとめたときの経験から、死刑の場合の誤判が決定的にまずいことを認識して、死刑廃止論者となります。
裁判官をつとめた刑事裁判で、裁判長が死刑判決を読み上げた後、退廷するとき、傍聴席から、「人殺しっ」との声が聞こえたそうです。

・過去の死刑事件の誤判の事例を実際に見ることができる。
・将来、どんなに法令を整えて、どんなに審理を尽くしても、誤判が出る可能性が有ることは否定できない。

この事実を認識していて、(報復は論外ですが)、抑止力を根拠として、死刑を存続させるべき、という論者は、結局のところ、「将来の犯罪を防止するためには、無実の者を殺すこともしょうがない。処刑された人は、たまたま偶然アンラッキーな人」というような認識なのでしょう。
「人殺し」以外の何物でもない。正義の人ぶって、自分は手を染めずに。


憲法36条が禁じる「残虐な刑罰」にあたり憲法違反


憲法
第三十六条  公務員による拷問及び残虐な刑罰は、絶対にこれを禁ずる。

戦後すぐ、死刑の事件で、この問題について言った最高裁判決があります。
最高裁は、死刑一般は「残虐な刑罰」にあたらない、といいました。
(将来、国民感情の変化などを理由に、違憲になる可能性も言っています)

しかし、死刑を合憲とすることは、憲法36条の通常の解釈とは矛盾が有ります。

まず、刑罰の種類の説明。
刑罰は、有罪になった人から、何を奪うかで、分類されます。
・生命刑(生命を奪う)=死刑一般
・身体刑(身体を害する)=手などを切り落とす、むち打ち、百叩きなど(今の日本には無い)
・自由刑(自由を奪う)=懲役、禁錮
・財産刑(財産を奪う)=罰金など


この中で、日本の確立された不動の解釈で、36条の「残虐な刑罰」とされているものがあります。
身体刑です。(日本の現行法にはありません)

上のような分類でいくと、それぞれは全く違うもののように見えます。

しかし、「死ぬ結果にいたる”身体刑”」が死刑なのです。

火炙り、釜茹ではもちろん、銃殺、ギロチン、絞首刑(日本で執行されている方法)は、やはり、身体刑です。
ですから、むち打ちが憲法違反なら、あらゆる死刑が、憲法違反になるのです。
(なお、「薬殺刑が残虐な刑罰と言えるか」は、いちおう議論がある)


「憲法13条と31条が、死刑を肯定している」と言えるか


ところで、憲法13条と31条を根拠に、
1.憲法は死刑を許容している。(上の最高裁はこの立場を判決で言っている)
または、
2.憲法は死刑を積極的に肯定している。
という人がいます。

憲法
第十三条  すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

第三十一条  何人も、法律の定める手続によらなければ、その生命若しくは自由を奪はれ、又はその他の刑罰を科せられない。


「13条も、31条も、生命刑=死刑の存在を想定している」のは間違い有りません。

しかし、許容しているとまでは言えません。

13条と31条の趣旨は、現在有る刑罰などの制度を前提として、適正手続きの保障だからです。

これを言う人は、13条、31条を文理解釈・反対解釈します。
文理解釈とは「条文の言葉を文字通りにとらえ(生命、身体、財産を例示とはとらえずに)解釈すること」
これを裏面から行ったものが反対解釈。
つまり「適正手続きを保障すれば、死刑を科して良い」と読みます。

憲法に限らず、法解釈学では、条文によって、さまざまな解釈の方法がとられ、条文の趣旨から、文理解釈・反対解釈が正しい解釈の場合も、当然有ります。

しかし、13条、31条を文理解釈して、死刑を積極的に肯定するのは、明らかに間違った読み方、解釈です。

むしろ、「個人の尊厳原理」を宣言している13条は、最初にも言いましたが、死刑廃止の根拠になるとさえ言えます。


世論と死刑

政府のアンケート調査によると、死刑廃止派は少数派のようです。

政府のアンケートの仕方は、判断に必要な情報を与えず、そして誘導的ですが、ここでは論じません。(別の投稿で書きます)

問題なのは、死刑の存廃を論じるのは、人権問題だという認識が欠けていることです。

主権者である国民が国会を通じて、民主主義で決めた、「法律」でさえも、ひっくり返すことができるのが、人権思想であり、自由主義であり、立憲主義なのです。
立憲民主制は、憲法に制限された民主主義なのです。
多数派から、少数派を守るために、憲法はあるのです。

「世論を無視しろ」というのはいけません。主権者国民を尊重しなければいけません。もちろんです。
しかし、人権問題の根拠に世論を使って正当化するのは、「人権」という言葉をまったく知らない人のやることです。

ヨーロッパの国々で廃止しようとしたとき、世論は反対がかなり多かったことが参考になると思います。
また、死刑廃止国で何年かして、制度復活の世論調査をすると、
「復活しないで良い」がかつての廃止派より増えていたり、 
「復活した方が良い」という人が比較的多くても、政府が復活させなかったり。

別に書いたものも参考にしてください。
死刑廃止条約とは - 死刑廃止の多国間条約について -

世界の潮流、外国の思想。そして日本がどこの国に近いか。

今回、このブログでは初めて、コメント欄を設置しました。
忌憚の無いご意見、お願いいたします。
罵詈雑言もご自由にどうぞ。

これも書いたので、読んでくださいませ(o*。_。)oペコッ
死刑制度と現場での犯人射殺 - 全然違うものを比べてはいけない