今日は、もっとんがブログを始めたきっかけについて、お話ししたいと思います。

もっとんは、20年くらい前から、 今書いているようなことを発信したい、と思っていました。

でも、我慢していました。

以前のもっとんは、好きでないことでも、「生きるためにはしかたがない。他人様(ひとさま)のお役に立って、自分が生活できればそれで良いではないか。」と思っていました。

でも、それって、良くないのです。合理的ではないのです。 

人間は、つまらないこと、いやなこと、をやると、ドーパミンが出ないのです。ドーパミンが出ないと、うつ気味になり、やる気が出ないし、頭が働かないのです。頭が働かないと仕事がうまくいかないのです。
もちろん、仕事を楽しくやる努力も必要です。楽しくなるようになるまで辛抱する時期も少しは必要でしょう。

でも、我慢をすることばかりになってしまって、仕事を楽しめる状況を作り出せないこともあるでしょう。
そして、余暇も無く、長時間労働をして、睡眠時間が少なくて、上司がしかるばかりで、さらに給料が安かったり、いつ首になるかわからない、だと、うつ病で自殺しない方が不自然です。 
極端な例かもしれませんが、自殺をする人の数が、抜群に多い日本では、深く考える必要が有ります。

やっていること自体が楽しいことなら、今は、はかどらなくて、長時間労働で、睡眠時間が少なくて、給料などの収入が少なくても、平気です(^O^)v
限度は有りますが(^_^;)

もっとんの個人的感想ではなくて、医学的に言っても、十分、合理的です。

最近、タモリさんとかたけしさんとかが「いつか先の夢のために今を犠牲にするという生き方ではなくて、今を楽しんでいたら、いつの間にか、成功した、と言われるようになった」というような話をしていました。二人のお話しには多少のニュアンスの違いがあるかもですが。

いろいろな人と接したりして、わかったことですが、タモリさんなどが否定している生き方は、うつ病などの人の生き方・考え方の共通点です。
自分が楽しんでなければ、他人に役立つパフォーマンスを発揮できませんし、嫌な気持ちが伝わります。
他人の成功をうらやんで、世間を憎みます。
自分をもろに犠牲にすると、他人をも不幸に巻き込んでしまうのです。

そんな生き方は良くないです。

客観的には、自分を犠牲にしているように見えても、その人にとっては楽しいことで幸福を感じられて、他人にも役立っていれば、一番です\(^o^)/

ここ、10年くらい、しんどいことは減らさないと、と思っていましたが、なかなかうまくいきません。妥協して、本当に自分のやりたいこと(自分の意見を発信すること)は我慢をしていたからだと思います。
ここ1年くらい、個人のFacebookページで、ニュースなどをシェアして、多少言いたいことを言っていました。でも、身近な友人を相手に、自分のことでないことを、くどくど言うのは、なんか違うかな、やっぱりブログが良いかな、とか思っていたのです。

そんなとき、Facebookで、他の人が頻繁に「いいね」するブログを読みました。(SNSの拡散力おそるべし。)

有名なブロガーだそうですが、知りませんでしたm(_ _)m
ブロガーというと、はあちゅうさんを最近知ったばかりです。
尊敬している学者とか弁護士のブログ以外では、前から読んでいる加藤紀子さんのブログと、最近、たまに、真野恵里菜さんのブログを読むくらいでした(^o^)m(__)m

好きなことを仕事として、仕事を成立させる手段としてブログで発信する、ということが、メインテーマのようです。

もっとんは、ブログで発信すること自体に興味があったので、多少、違うかもです(^_^;)


ここから、法学の話です。もっとんのブログらしくなってきました(^o^)

無理やりだなぁ、と思いますか?
ところが、ものすごく深い関係が有るのです。 

幸福追求権の話です。

憲法の13条に書いてあります。

第十三条  すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

シンプルに言うと、人権の基本が書いてある条文、っていうことです。
個人の尊厳原理(人権思想の根本原理)
幸福追求権(人権、または、人権の中の特に自由権を、包括する権利)(多少、学者によって解釈が違います)
について書かれています。


自由権というのは、人権の一種で、「国家権力が、国民、人民に、何かすることしないことを邪魔できない、という権利全般」のことです。つまり、「ほっとけ」という権利です。

3種類有ります。
精神的自由権(思想・良心の自由、表現の自由、信教の自由、学問の自由など)
経済的自由権(財産権、職業選択の自由、居住・移転の自由など)
身体的自由権(奴隷的拘束からの自由、適正手続の保障など)

自由権は、何をしても良い、という意味ではありません。
他人を害さなければ、何をしても、しなくても、権力が邪魔してはいけない、ということです。
(経済的自由権はさらに認められる制約がありますが。)
「公共の福祉に反しない限り」というのはそういう意味です。
 
他人を害さないにしても、自分が好かないことをする人はたくさんいます。
もっとんにも、好かない人はいっぱいいます(^_^;)

でも、その価値判断を、国家権力にまかせてはいけない、ということです。
どんなに、奇人変人の行為でも、ぎりぎりのところまで、放置すべきなのです。

「個人が幸福だと思う生き方を国家権力がじゃましないように」というのが、幸福追求権です。

カトリック教会に逆らう人がいたから、信教の自由が認められました。
専制君主や貴族政治に反発した人がいたから、民主主義ができました。 

スティーブ・ジョブスという変人がいたから、マッキントッシュができました。
iPhoneなどのスマートフォンもできました。

モーツァルトがいたから、ビートルズがいたから、新しい音楽が生まれました。
北斎がいたから、ピカソがいたから、岡本太郎がいたから、新しい美術が生まれました。

政党を支援したり、国家権力を批判するような宗教団体を、宗教団体に権力(裁判権とか徴税権とか自動的に公務員にさせたりとか)を持たせている国(政教一致している国)(戦前の国家神道の日本など)が、弾圧しました。
言論人も、学者も、芸術家も弾圧されました。 
中世ヨーロッパでは、政教一致の国=教会が、魔女裁判をしました。絵を修正しました。
ソ連では、芸術に、国をたたえることが求められました。ショスタコーヴィチやチャイコフスキーは、それを逆手にとっていますが(^o^)
1970年前後の中国では、資本家や、弁護士、医者、学者が弾圧され、文化遺産、宗教施設が破壊され、芸術も厳しく制限されました。麻雀も禁止。

新しいことをやる人は、みんな、最初は、奇人変人として、やっかい者扱いをされたり、バカ扱いされたのです。
そして、国家権力を批判する人、特に、宗教人、学者は、弾圧されたのです。
批判していない人まで、国の思想と違うと言って、弾圧したのです。

だれかが、自分のやりたいことをやろうとするときに、それが他人を害するものでなければ、邪魔をするのはやめましょうよ。
わがままだ、とか言うのはよしましょうよ。
好きにさせとけばいいじゃんか。

空気を読めとか言って、他人を邪魔して、
自分がたまたま居心地が良いグループにいたりして、でも、細かいことでは本当は違うのに我慢して、つまらない思いをして、とにかくグループ内で嫌われなければ良い、なんていう生き方はやめましょうよ。

仲間はずれされてる人のことも、明日は我が身です。
だって、本当は、人それぞれ全部違うんですから。
仲間の方にいようとしたって、ちょっとした結果で、仲間からはずされます。
一生、それにおびえて生きていくなんて、おかしいでしょう?
おびえなければいけないクソみたいな世の中を変えましょうよ。

空気を読めない人間を、国家権力が排除しようとすれば、それを自由権侵害と呼ぶのです。
みんなが空気を読むことが一番良いこととされている状態を「全体主義」「ファッショ」「ファシズム」と呼ぶのです。

民主主義の手続を踏んでいても、多数決でも侵害できないのが、人権なのです。だから、憲法違反の法律は無効なのです。これを立憲民主制といいます。

空気を読むことを第一にしている人は、 人権思想を理解できないです。
日本の中で空気を読んでいると、人権思想を重んじる外国から、日本は、悪く言われますよ。
すでに、国連からしょっちゅう「勧告」されていますけども。日本のマスコミがあまり報道しないので、知らない人が多いでしょうけど。

もちろん、空気を読むことは大事です。
あまりに場を考えない振る舞いは、他人を悲しませます。
以前、個人主義が進みすぎたヨーロッパには、そういう反省も有ります。

自分のことも、他人のことも、同じ人間として、同じように尊重することが大切なのではないでしょうか。
これが、自由主義で言うところの、平等です。
お金とかを平等にしようというのは、社会主義でいう平等です。

こういう文脈で考えれば、名誉毀損やヘイトスピーチが、表現の自由があっても、制限して良い場合だ、ということがわかるでしょう?
自由の意味がわからないから、何が問題かわからないから、
変な制限は積極的にする(路上ライブの取り締まりとか)くせに、放送法、電波法は危険な解釈をする余地があるまま放置で、そして、ヘイトスピーチなどには及び腰なのです。

憲法的価値観を教育する、道徳教育こそ、すべきなのではないでしょうか。
「人権を保障する=国の義務を書く」のがメインテーマの憲法に、国民が憲法を守る義務やその他の国民の義務を書くなんて、あさっての方向の話をしている場合ではないのです。


あとがき

いつも、長文ですみません。

12月10日にブログの初投稿をしました。
12月10日に、初の投稿日を選んだのは、自分のブログの方針を明確にしたかったからです。

今後とも、こびずに、しかし、共感していただけることを目指して、書き続けたい、と思います。
もっとんが言ってることが、「あたりまえじゃん」 って、言われることが多くなるまで。
そしたら、このブログの意味が無くなっちゃうかもですけど(^o^)

もっとんは、空気を読むのが不得意です。空気を読んだ上で、価値的な思想・行動を正しく選択できる人間でありたい、と思う今日このごろです(^o^)
未熟者で、ずっと未熟者のままかもですが、未熟者のまま、正直に頑張りますp(^O^)q


追記(2016年9月25日)

この投稿の題名と内容を一部変更しました。
(文章の趣旨、脈略、実質的な内容は変えていません。)